『大人の女が美しい』 / 長沢 節

まるごと人を愛す

   → 「まるごと」という言葉がすき 部分ではなく、全体をみること

あなた ~ を心から愛し、羨んでる ~ 他人がきっといる

   → ひとりひとりには役割がある 持って生まれたものを大切に 自分自身をしっかりと生きる 自分の苦手なことはもしかしたら誰かの役割かもしれない 自分自身を生きることは自分のためであり、誰かのため(光)になる

趣味が全然合わない二人こそ真に幸せでなければならない。 ~ 世界と ~ 世界が合わさって倍に拡がっていくからだが、同じ趣味なら二つはただ一つに重なるだけ

   → ひとりひとりの光が合わさって、光はどんどん大きくなる だから「みんな違って、みんないい」んだな アーユルヴェーダの定義「人生の目的は幸福の拡大」もすとんと腑に落ちる文章

~ 至福の境地は、つくづく自分が ~ でなくてよかったと思わせるほどなのだ

   → 「わたしはわたしでよかった」何年か前からふとしたときに思うこと

私たちは誰も何をどう愛そうが自由なのである

   → 自分が自然に「(相手に)心からそうしたい(与えたい)」と相手にもたらしたことに対して、相手がどう受け取るかは自分には関係ないこと。受け取らないことに対してもやもやしたとしたら、それは純粋な思い(=本質=「(相手に)心からそうしたい(与えたい)」)を完全に見失っている。

もっとちゃんと、私の全体を愛してよ。

もっと私の全体を愛して

   → 大事なのは部分ではない。ドーシャに乱れがあるとき、人は部分にとらわれ、全体性という観点を見失う

あなたには ~ 欠点のほかにも実は何十、あるいは何百という自分ではちっとも気づいていないたくさんの美点もある ~ それをみつけてくれるのは自分ではなくてあくまでも他人だということ、それを考えたことがありますか。

   → 自分で見い出すこともあるけどね。 だけど「相対」という枠によって人は自分自身に気づくことができる。他人は自分の鏡。あなたはわたし。・・・ん?ってことはこの文章スゴく普通のこと言ってる 笑。読んだ瞬間「むむ?」と違和感を感じたけれど、 笑

人の全体をもし点で分解したとすれば、 ~ その一つひとつが自分の知らないうちに他人を引き寄せたり引き離したりしている

人と人とは必ずどこか相手の美しい一点でつながる

   → この世界に存在しているものを分解して、分解して、分解して、分解すると、粒子になって、結局はみんな振動(響き)だ。響き合って、お互いに影響を与えあっている。

意地悪なのは相手の自由なのであって、私がなにも干渉する権利などない ~ いかなる愛も決してそんな傲慢なものではない

   → うんうん

しばらくすると、~ 意地悪は ~ 愛の交流にとってとても重要な役割を果たすことになる ~ もしも意地悪でなくなってしまったら、きっと塩気の足りない料理みたいにその人を感じるかもしれない

   → 相手を「こういう人だ」と定義しているのは自分の心だ。相手は自然に存在しているだけ。その人はその人の役割をやっているだけのこと。自分は自分の役割を生きるだけ。

愛は必ず一点でつながって全体が好きになることなのだ

   → 「愛」とは純粋意識のことなんだろうな きっと。