「本当に」望むものを得ないと人は「本当に」は満足できない

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お金に振り回されずにちゃんと人生を楽しめ

現代人は脳みそがお金に占領されすぎている

素直にオススメできる

働きすぎ

お金は心地よく生きるにあたっての潤滑油でしかなく、人生の歯車そのものには決してならない

フェラーリやら料亭、都内一等地のタワマンなどといった、無理をして他人が作り上げた幻想に乗っかろうとすればお金は無尽蔵に吸われて消えてしまうが、そういうものに手を出して手に入る幸せは砂上の楼閣のように儚い

確かに人生における素晴らしい体験の一つではあるが、それらを無理してでも持続したいとは僕は思えなかった

一番肝心な点としては、そういうステータスの維持は生活を全く楽にはしてくれない

こんなに稼いでいるのに生活が全く楽にならない

お金をいくら稼いだところで生活は楽になるようなものではない

稼いだお金でアレコレ外注したりして生活なんていくらでも楽にできそうにみえるものだけど、実際にそういう手段でもって生活が楽になった事例を少なくとも僕は一つもしらない

生活を楽にしてくれるもの。それは体力と精神力

心の底から理解するキッカケとなった過去の話を交えながら

毎日他人の悪口が頭の中に渦巻き、その影響もあって運動もせずに暴飲暴食でもってストレスを発散させていた僕の身体は徐々に悲鳴をあげつつあった

絶望したところで生活様式が変わるはずもなく、僕はハイパーストレスの元で不健康を徹底していた

「このままだと精神的に死ぬ。仕事の負荷がキツすぎて、心が保てないと一瞬で悟り、酒をほぼ断ち、1日12キロのランニングならびに2時間の瞑想という、それまでの自分だったら「おまwww悟りの境地を目指してる修行僧かよwww」とドン引きすること間違い無しな生活に突入する事になった」

自分を変えたければ「決意」より「時間配分」「住む場所」「付き合う人」を変えろ

「超絶環境にコミットした結果、僕は体力ならびに精神力が異次元に貯蓄される事になった。改めて振り返ってみるに、これらを30台中盤あたりで貯蓄できた事は本当に今の自分の真の資産になったなと心の底から思える。今の職場は労働量だけでいえば全くといっていい程に金銭的対価は釣り合っていないのだが、そこで働く事で得られる体力と精神力という意味ではリターンは本当に凄い。僕は明らかに2年前の僕とは人格が変わった。この変化はお金を出しても絶対に買えるような性質のものではなく、そういう意味では良い環境に身を置けたなと素直に思う体力と精神力はお金を出しても買えるような性質のものではない。まして意思の力でどうこうできるような性質のものでは絶対にない

それらを手に入れる事の効用は馬鹿にはできない。体力と精神力がついてどう変わったかを一言でいえば「生活が楽になった」である。今の僕は肉体的な意味ではほぼ疲れないし、精神的な疲労も感じたら自分で徹底的にメンテナンスできるになった。かつての自分なら「働いても働いても生活が一向に楽にならない」と言っていたように思うが、今の自分はその言葉がどれだけお金に洗脳されたものだったのか実によく理解できる働いても生活が楽にならないのはお金の問題ではなく、体力と精神力が無いからにほかならない。残念ながら、お金はそのかわりにはならないのである。その事に体力と精神力が身について、やっと気がつけた

現代社会はとにかく傷つくことが忌避されがちだ。

ココロが傷つく労働という環境から、お金の力を使ってどうにか脱出したいという思いでもって称賛されている側面がある

「運動にしろ瞑想にしろ、大抵の物事はやり始めは苦ばかりで楽しい事などほとんど無い。しかしそれは世の中のほとんどの良い事が実はそうなのだ。例えば婚活は苦行ではあるが、結婚して子供を育て、色々と家族の時間を持てれば尊い最上の価値あるものへと変貌する。このように人生はほぼ全てといっていいほどに良いとされるものは入り口が”傷つく”要素で満ちている。だから辛かったり苦しかったりするようなモノをみたときには、むしろ辛かったり苦しかったりするから、くぐり抜ければ逆に何かいい事があるに違いないと思った方が、たぶんなのだけど予後はいい。もちろん僕だって傷つくのは嬉しくはないのだが、それでもその傷が嫌だからと言って傷つかない選択を選んでも、あまり幸せにはなれないと思う。労働にしろ運動にしろ瞑想にしろ、嫌なことは立ち向かってみたら案外大したことない覚悟を持って立ち向かう事さえできれば、そこから脱出を目指していた事が馬鹿馬鹿しく感じられる日が必ずやってくる。そういうもの

現代日本ラクに手に入る快楽がとても多い。数百円で誰もが旨いと思えるようなモノを食べられて、インターネット上には無料で上質なコンテンツが溢れまくっている。そういうものをみて「傷ついてボロボロになるぐらいなら、もうこれぐらいで自分の人生は十分だ」と、低い目標にすがりつきたくなる気持ちはわからないでもない。しかし実際に困難を乗り越えて良きものを獲得してみると、人生は瞬く間に別のステージへと突入する。こうなると人生は本当の意味で自由になり、他人に依存する人生から主体的な人生へと変貌を遂げる。僕が思うに多くの人は人生を他人に依存しすぎている。例えば誰かから嫌になる事を昼に言われたとしよう。それで不快な思いに一時的に陥るのは仕方がないが、それをずっと気にして夜も落ち込み続けていたとしたら、それは完全に自分で選んだ結果である。それまでの人生で良いことも悪いことも色々あったのに、あえて落ち込むような事を考え続けるのは自分でそう選んだ選択に他ならない。だから「アイツのせいでイライラする」と他責的な思考になるのではなく、「そういえば去年いった北海道旅行は楽しかったな」と主体的に思考を動かせば、現実は万華鏡のように見える姿を変える現実は多様であり、自分自身もまた多様である。多様な人生において、何を選ぶかは全て本当なら自分の意志で決められるのだが、多くの人は世間や他人に”決められた”モノをみて生きてしまっている。この状況が不幸なのは言うまでもないのだが、面白いことに多くの人が”安心”したいが為に最大公約数的な意見に自分を収束させたがるかのように、自分という主体を割と好き好んで捨てている」

主体的にそうだと決断するのなら、それはいい事だと自分は思う

「「日本社会はクソだからFIREしないと幸せになれない」のように、借り物の思考を使って自分が不幸せな理由に答え合わせをするかのように目指していたとしたら、それは完全に他人に人生を奪われてしまっている。傷つくアクティビティを乗り越えて、主体性的に良い人生を選択できるようになる。それさえできれば、お金なんて些細な問題だったと、たぶん気がつけるはず」