反応していたら、結局しこりが大きくなるだけ
私たちが犯しやすい間違い=何回やっても同じ間違いを犯す ― パターン
パターンがある
最も多いのが、作用と反作用による失敗
(例) 肩こりはかたいもので叩けば良くなるのか?
→ あり得ない
その瞬間は多少、一瞬結構が良くなる
↓ しかし、
作用と反作用があるから、叩かれた部分は抵抗し、ますます硬化する
=自然の流れ
肩こりは無理やりに揉む=結果
もっと違うところに肩こりの原因がある―と複層的に考えなけれな健康すら守れなくなる
「アイツがこんなことを言った」
「アイツはこんなことをやり始めた」ワーワー
作用反作用で反応していたら、結局しこりが大きくなるだけ
↓
これ(作用反作用)を(知っているうえで)うまく使う人がいる
→人為的に悲劇を作り出すことができる
私たちはこの「罠」にいつでも入ってしまう
(例) 「○○は身体にいい!」と聞けば、○○が売り切れになる
→人それぞれ、決して身体にいいわけないじゃない(と私は思う)
↓ つまり、
大袈裟に反応する(されられている)
身体にいい!と思えば「やってみよう!」と思う(思わされる)
→ それだけ私たちは日々を不安の中で生きていて、少しでもなんとしても良くなりたい!という悲しい思いが誰にでもあるので、そのような間違いを何度も犯す
↓ すると、
人間の身体はだんだんと防衛的になり、脳も防衛的になり、行動も防衛的になり、思考も防衛的になる
↓ そこから生まれるものは?
知らないうちに鎧兜(よろいかぶと)を身に着けながら生きている自分の姿に気づく
気づくことができれば幸い!
気づかないで思い一生を終えていくのは勿体ない
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なーんか“高度な美容”とは違うなを感じていた
↓ その後
あまり乱暴な美顔術は確かに世の中で見かけなくなった=「本物」ではなかったっちゅーことよね
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エネルギーが入ってくる=人間の欣び
「アイツがこう言ったから、こう言い返さなくちゃ」の世界からは絶対に生まれて来ない非常に微細な接触によって生じてくる世界がある
微細なアプローチにしか平和、問題の解決、
積み上げた問題の解決は、これまでと違う微細なアプローチによってしか修正されることはない
↓ だから、
運が変わるとき=ずっと張りつめていた状態のまま(「張りつめている」とは気づいていないが)、それが途切れたときに(例)思わず笑っちゃった!とか、これまで聞いたことのないような鳥の声がハッと耳に入ってきた ―とか、そーゆーときにきっかけとなって、これまで継続していた戦闘モードがピタッと止まって、新しい微細な次元にいくときがある
それによって、エネルギーに触れ、再生することができる
↓ そのときに、
パワーの侵攻が入ってくると、全てが壊れる
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車で移動しているときは、この街のことを全部知っているように見えて、
今度は自転車で同じ道を歩いてみると、「こんなお店があったんだぁ」「ここにこんな路地があったんだぁ」ってことに発見できる
↓ さらに、
自転車を降りて歩いて同じ道を歩いてみると、「ここにこんな花が咲いている」どんどん発見が広がっていく
↓ だから、
私たちの常識は、ほとんどが逆転している
近代 現代の科学的で合理的でスピーディなこの時代においては、物事を発見できないような作用と反作用の世界に私たちを押し込んでいる(閉じ込められている)
↓
何を考えるときでも、どこか状態のまま=これまでと同じ姿勢のままでいくら考えても、同じことしか出てこない
「もういいよ、そんなこと考えるのはやめて、ごはんでも食べに行こ!」
全て忘れて、食べ終わって、「あー美味しかった!もう寝ちゃおう」
のときにハッ!とこれまで気づかなかったようなことに気づく
非日常性のギフト(贈り物)がこの世にはいっぱいある気がする
↓ しかし、
頑なな私たちの心情と、頑なな日常によって、頑なな習慣によって、そーゆー世界はなかなかあらわれてはくれない
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ポイントは「微細であること」
一回、作用反作用の世界から抜けてみること
これまで無視していたような作用、反作用の世界を実際に創造して体験してみて、非日常の時間が訪れる気がする